「葬送(そうそう)」
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某(それがし) 親鸞(しんらん)閉眼せば、
賀茂川にいれて魚にあたふべし。
覚如上人『改邪鈔(かいじゃしょう)』より
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このところ、当院の入所者・利用者の方の訃報をぽつぽつ耳にします。身寄り・縁者のない方の場合は、僧職の資格を持つ常務理事が院内で葬儀式をボランティアで執り行い荼毘に付します。幸いと言ったら語弊がありましょうが、ご存じの通り本院は仏教をその設立の理念にしておりますので、私を初め真宗大谷派の僧籍を持つ職員が多々在籍しております。
一方、当院の在院者は0歳の保育園児から100歳の特別養護老人ホームの入所者まで、同一敷地内で1世紀にわたる年齢層の方々が共々に世代間の交流を図って、いのちを燃やしています。日常的にも、あるいはイベント時などでも、異世代間の触れあいが実に容易にできるのが、本院最大の特徴でありメリットでもあります。
そうしたなか、院内で葬儀が執り行われ出棺の準備が整ったころ、玄関の車回しのところへ養護施設南山寮の子どもたちが並び、出棺時には合掌礼をもって霊柩車を見送ります。先だっての葬儀では、若干名の親族や会葬者がいらっしゃいましたが、子どもたちの見送りの姿にいたく感動し喜んでいらっしゃったとの後日談も伺いました。
ところで、人間いのち終えたらどこへ行くのでしょう。「あの世へ行った」とか「天国へ行った」とか言われますが、我が浄土真宗では「お浄土へ往く」とお教えいただいております。お浄土へ往って仏に生まれさせていただくのです。まさに「往生(おうじょう)」です。「往生」の意が、報道などで「立ち往生した」のように行き詰まった意、ネガティブな意味に使われますが、本来は全く反対の意味。
「即得往生」と申しますから、いのち終えたら「即」仏に成るのです。したがって、名前も戸籍上の「俗名」に変わって「法名」になります。宗派のよっては「戒名」といいますが、これは「受戒」をしていただく名前。真宗では受戒ということはありませんので、仏法の名前・法名。法名には必ず「釋」の一字がつきます。お釋迦様の弟子になったということを表わします。
最近、葬儀不要論を耳にすることがあります。その典型的な葬送が「直葬」。ご遺体を火葬場へ直送して、棺前勤行や葬場勤行はおろか、枕直し勤行も勤められることなく、まるでゴミのように焼却されるののです。もちろん法名もなく僧侶も不要で、葬儀式も告別式もありません。少子高齢化の時代、こうした傾向は最近急速に増加しているようです。聞くところによれば、首都圏では30~40%がそうした「直葬」だとも。
こうしたケースでは、残された人間の心の問題はいったいどうなるのでしょう。心の整理がつくでしょうか、心の落ち着きどころが見つかるでしょうか。「私」は忽然と今ここに実存しているのではありません。親があり、その親にはまた親があり、その親には先祖があり、連綿と続く時間の縦軸に数限りない横軸のご縁があって、初めて私が実存するのでしょう。そのことに深く心する時、理屈や義務でなく、いただいた無限の時間とご縁に感謝せずにいられないのが人間の「特権」ではないでしょうか。
そのご縁の深さ広さを感得したときには、自ずから感謝の念が沸き、同時に「直葬」などに思いを馳せることは自らの心がNOの信号を発するはずです。これは法律でも規則でもなく、「人」と人との「間柄」なる存在「人間」の心の自然な発露でもありましょう。
合掌
《2010.4.5 理事長・本田眞哉・記》
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